2014年06月05日

ヴィヴァーノ・ウエストウッドのスタンド、プラネット・ウェイブスの元ネタ ボブ・ディランの『プラネット・ウェイヴズ(Planet Waves)』

グリーン・ドルフィン・ストリート刑務所の特別懲罰隔離房棟看守ヴィヴァーノ・ウエストウッドのスタンド「プラネット・ウェイブス」の元ネタは、ボブ・ディランの14枚目のスタジオ・アルバム『プラネット・ウェイヴズ(Planet Waves)』。

ボブ・ディランは岸辺露伴の時も登場しているが、今回はもう少し詳しく。ボブ・ディラン、本名ロバート・アレン・ジマーマンは、1941年にアメリカのミネソタ州に生まれ、10歳から詩を書き、13歳でピアノ、ギターを弾き始める。そしてそれまではハンク・ウィリアムズなどのカントリー・ミュージックを聴いていたが、1955年に公開された映画『暴力教室』を観てロックン・ロールに衝撃を受ける。翌年にはロックン・ロール・バンドを結成する。そこで初めて作曲をし、その内容はフランスの女優、ブリジット・バルドーに捧げるものであった。

そしてミネソタ大学に入学するも、翌年には中退して放浪生活をするようになる。その時に出会ったアメリカを代表するフォーク・シンガー、ウディ・ガスリー(Woody Guthrie)の自叙伝に感銘を受け、すぐに彼に会うためにニューヨークへと向かう。そして入院中のウディ・ガスリーを見舞った彼は、そこで様々なことを学び、彼をとおして同じくフォーク・シンガーのピート・シーガーらとも交流を持つようになる。そしてグリニッジ・ヴィレッジにあるクラブ、カフェ・ホワッ?でステージをこなすようになり、他にもいろんなクラブに出演し腕を磨いていくことに。そしてフォーク・シンガー、デイヴ・ヴァン・ロンクに出会ったのがきっかけで、念願のガスライトへ出演することに。その後、敏腕プロデューサー、ジョン・ハモンドと運命的に出会い、1962年に彼のプロデュースで念願のデビュー・アルバム『ボブ・ディラン(Bob Dylan)』を発表する。ちなみにジョンハモンドは今までビリー・ホリディ、チャーリー・クリスチャン、キャブ・キャロウェイ、ベニー・グッドマン、カウント・ベイシー、ライオネル・ハンプトンなどの大物アーティストを発掘しているスカウト・マンである。

デビューを果たしたディランは、61年ごろから積極的に関わっていた公民権運動に影響を受けて書いた名曲「風に吹かれて(Blowin' in the Wind)」を63年に発売し、同曲収録の2ndアルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン(The Freewheelin' Bob Dylan)』が全英チャートで1位を獲得する。このアルバムのジャケットに写っている、ディランと腕を組んで女性こそ、彼が公民権運動に深く関わっていくきっかけをつくった、当時の恋人、スーズ・ロトロである。アメリカではこのアルバムは当初それほど売れなかったが、ピーター・ポール&マリーが「風に吹かれて」をカヴァーして、全米2位を記録する大ヒットに。そのおかげでディランのアルバムも売り上げを伸ばすことになる。

その後64年2月に3rdアルバム『時代は変る(The Times They Are a-Changin)』を、そして8月に4thアルバム『アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン(Another Side of Bob Dylan)』を発表する。翌65年3月に5thアルバム『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム(Bringing It All Back Home)』を、7月には先行シングル「ライク・ア・ローリング・ストーン(Like a Rolling Stone)」を発売し、全米ビルボード・チャートで2位を、全英チャートで4位を記録するヒットに。このシングル発売の5日後の7月25日にアメリカのロードアイランド州ニューポートで開かれたニューポート・フォーク・フェスティバルで、エレキ・ギターを手にロック・スタイルで登場した彼は、観客からブーイングの嵐を受ける。そして翌8月に「ライク・ア・ローリング・ストーン」収録の6thアルバム『追憶のハイウェイ61(Highway 61 Revisited)』を発表する。

そして翌年66年5月に彼の最高傑作との呼び声が高い、ロック史上初の二枚組アルバム『ブロンド・オン・ブロンド(Blonde on Blonde)」を発表する。同年7月にバイク事故を起こした彼は、約1年半にも及ぶ隠遁生活を送ることに。その間に行なわれたザ・バンド(当時ザ・ホークス)とのセッションの模様がのちにアルバム『地下室(The Basement Tapes)』として発表される。個人的なことだが、この作品はかつて友人に「人生を変えた1枚」として薦められたのを今でもはっきりと覚えている。その友人もジョジョが好きで、よく洋楽の話で盛り上がったものだ。他にも元ネタとして登場しているザ・バンドやリトル・フィートなどが好きだったその友人からは大きな影響を受けている。

ちょっと話が逸れたが、その後ディランは復帰第1作『ジョン・ウェズリー・ハーディング(John Wesley Harding)』を67年12月に発売して全米チャート2位、全英チャート1位を記録し、見事復活を遂げるのである。2年後の69年にはカントリー色を強めた『ナッシュヴィル・スカイライン(Nashville Skyline)』を発表し、全米3位、全英1位を記録するヒットに。70年には『セルフ・ポートレイト(Self Portrait)』を発表し、商業的には成功するがその内容は賛否両論分かれる。わずか4ヵ月後には『新しい夜明け(New Morning)』を発表する。そして73年に第4部の岸辺露伴の時に触れた『ビリー・ザ・キッド(Pat Garrett & Billy the Kid)』を発表し、同年発表されたアウト・テイク集『ディラン(Dylan)』をはさんで翌74年に発表されたのが今回の元ネタの『プラネット・ウェイヴズ(Planet Waves)』である。

今作は全米ビルボード・チャートで初めて1位を獲得した作品である。そして1曲を除いてバックを務めているのがザ・バンドである。ディランとザ・バンドは、このアルバム発売と同時に約8年ぶりの全米ツアーを行なう。この作品を聴くとさすがに彼らの相性は抜群だ。彼らがバックだとディランも安心感があるのか非常にリラックスしているように聞こえるし、気負ったところが微塵もない。

当初は『ラブソングス』などのアルバムタイトルが候補として挙がっていたというだけあって、4曲目の「ヘイゼル(Hazel)」をはじめ素晴らしいラブソングが揃っている。そしてこのアルバムの聴き所はやっぱり、6、7の「いつまでも若く(Forever Young)」のヴァージョン違いだろうか。同じ曲がいくらヴァージョン違いでも変だと思う人は多いと思うが、昔はレコードで聴いていた時代はスロー・ヴァージョンでA面が終わり、テンポをアップしてスワンプ風にアレンジされた同曲でB面がスタートするという作りである。このちょっと明るい感じのする曲に続いて、タイトル通りの8「悲しみの歌(Dirge)」は本当に悲しげだ。最後にはディランらしいぶっきらぼうなヴォーカルが特徴的な結婚ソングの「ウェディング・ソング(Wedding Song)」。結婚ソングというより熱烈に愛を語っている歌である。他にも1曲目のアコーディオンとハーモニカが素晴らしいアップテンポな「こんな夜に(On a Night Like This)」。

これ以外でも粒が揃ったいいアルバムだと実感する。しかし彼の曲は歌詞を読んで聴かないとその魅力は理解できないと、改めて思わされた。なぜなら彼は歌がうまいわけでもなく、ギターがうまいわけでもないからだ。この作品はバックが素晴らしいが。


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